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長年連れ添った夫婦の魅力


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私はリハビリで度々入院するようになって、高齢の男たちの日常生活における無能さにびっくりしました。


 

入院中の日常生活の何でもかんでも看護師か、見舞いに来る女房に頼りきりになる。歯磨きは自分でしても、自分の湯呑や箸など一切洗おうとしない。同室の者に挨拶する等のコミュニケーションさえ取れない。ただ、ボーとテレビを見ているだけ。世話してくれる看護師等とも世間話もしない。


 


次に女房が、何時見舞いにきてくれるのか、それが何時も気にかかる。


女房が病院に来れば来たで、今度は帰るのをひどく嫌がる。





こんなつまらん男には、愛想も尽きるやろと、僭越ながら思うのですが、古女房の方は、これが甲斐甲斐しいのです。


 

九十歳のおじいちゃんを同年代のおばあちゃんが毎日見舞いに来て、甲斐甲斐しく世話をする。おばあちゃんの耳が遠く、お爺ちゃんは、すぐいらいらしてケンカしているように大声になるのですが、それでも、しばらくすると笑い合っている。


 

もう少し年齢は下がりますが、同室のもう2組は70代のご夫婦です。こちらも似たり寄ったり、入院生活で何にもしない夫と、甲斐甲斐しく世話をやく妻の組み合わせ。


 

こんな夫婦を毎日見ていると、私はだんだん感心することが多くなってきました。男は高齢になって子供のようになっているが、女性は、変わりなく母性本能を発揮する。


 

そこに長年連れ添ってきた夫婦の独特の味というか魅力が生まれている。


私も徐々に、女性の母性本能の素晴らしさを感じ、最後は、感動すら覚えるようになりました。


まともに話もできない夫に変わり、私の顔を見かけると、きちんと挨拶してくれ、世間話もするようになりましたが、夫に対する優しい気持ちが伝わってくる。


 

今の世の中、不倫不倫と花盛りで、恋愛至上主義のような感じですけど、長年連れ添ってきた夫婦の年月には何とも言えない落ち着いた味がある。人生、惚れた腫れたより大切なものがある。そんな気がしてくるのです。

 

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労働環境の変化に合わせる勇気と努力

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絶望老人(3)労働環境の変化に合わせる勇気と努力


 

今回も「絶望老人」神郷由紀著からピックアップさせていただきます。


絶望老人

絶望老人

  • 作者: 新郷 由起
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2017/02/23
  • メディア: 単行本

 

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◆ 少し前には花形ともてはやされた職業が、次々と消えていくのも必須なら、身につけた知識や技術が現代では通用しなかったり、需要が見込めず、生かす場を失って嘆く人の声も絶えない。


 

◆ かつて働き盛りだった時分に営業成績はピカイチだったと豪語する高齢男性に限って、その手腕の三種の神器が「酒、麻雀、ゴルフ」で、最後は「土げさで泣き落とし」と言い切る人も多いのだ。


コミュニケーションの形態が変化して効率やデータが最優先される現代では往年の手法が 通用に乏しいばかりか伝授さえ乞われない。


 

◆高齢者にとって現実は厳しい。 時代のスピードは加速するばかりで、後人に教えを説くより逆、に日進月歩で次々と投入される新しい機器の使い方やシステムの説明を若者層に乞う現場こそ増える一方なのだ。  新しい職を得て今まとは違う環境と、人間関係の中で様々なことを一から覚えてこなし、周囲と打ち解けて実戦力となる人材でいるためには、それまで築いたキャリアや自尊心を時に封じ、価値観すら変換する柔軟性が求められる 。


 

◆時代が求めているのは人間力


結局意識の高い人はどこへ行っても通用する。高齢者であればこそ「人間力」が問われる。


都内のスーパー店主が話す「若い学生アルバイトがやり込められるような迷惑客にも平然と接して上手に捌いてくれる。その後にいろんな人がいるから大丈夫よとさりげなく励ましたり、場に応じた気遣いができるのは年齢を重ねた人ならでは。


 


努力の末パート暦2年でレジの達人になった70歳女性もいます。 つまるところ体の故障さえなければ実年齢より人柄なんですよね。 豊富な人生訓をもつ高齢者ならではの対応力や懐の深さがいい形で現場で生かされ窮地を救う局面もあるのです。


 

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本当にそうです。仕事のみならず、引退以降の病院や介護などの施設でも結局問われるのは人間力です。


 


これまでの仕事でのキャリアを忘れ、誇りや愛着は胸の奥にしまい込み、価値観すら変える柔軟性が求められます 。会社などで偉かったことなど邪魔になるだけです。むしろ遊び人で社会的地位が低かった人の方が、他の人に好かれる可能性があります。勇気をもって価値観を変え、他の人を認める柔軟性が求められるのです。


 


退職後、道路のゴミ拾いなどの清掃を自主的に始める人がいます。「できるなあ~、達人や!」と私は、いたく感心しています。掃除は余計なものを洗い流すことを知っておられるのです。


 


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障害者に多様な仕事の機会を


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【神戸新聞2019年1月6日】


 

こんな記事が飛び込んできました。久々明るい気分になりました。


 

障害者は、その能力に応じ様々な仕事ができると思うのです。表面に現れる身体的な障害だけで、全ての面で劣っていると考えないでください。





このイオンさんのように、様々な仕事の機会を与えていただきたいのです。きっと思った以上にできることがあるはずです。このような店頭業務、接客業務もこなせる人は多くあると思います。


私の近所にイオングループの ディスカウントストア「ザ・ビッグ」があり、よく行くのですが、知的障害と思しき中年の方がカートや食品トレーの整理をやっておられます。きちんと挨拶されますし、なにより長く続いているのが素晴らしいといつも感心しています。


 

また、障害者の方のお書きになっているブログなどを読んでいますと、しっかりとした内容も多く、 この点を考えてもPC 作業や管理業務、企画など知的な仕事を十分こなせる人が多くいると思います。


 

イオンさんに続く企業がどんどん現れてほしいものです。

 

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京都花園の法金剛院へ行って、800年前の西行の思いに浸って来ましたきました。


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京都花園に行ってきました。
花園は京都の西、双ヶ岡(ならびがおか)という小さな山(丘)が並んだ場所にあります。このさらに西が嵯峨野・嵐山です。京都中心部から比較的近くで山の自然が感じられる場所です。それは平安時代でも一緒で、平安貴族等多くの人が出家した後に移り住んでいます。 
 
今回は私の好きな西行の歌の話です。
 
西行と言えば双ヶ岡(ならびがおか)のふもとの法金剛院(左の写真下)。なぜなら、西行が生涯通し恋しく思った相手「待賢門院 璋子(たいけんもんいん たまこ)」が住んでいたのが法金剛院だからです。
璋子が亡くなった後、ここに来て詠んだ歌がこの歌です。
 いにしへを 恋ふる涙の 色に似て 袂に散るは 紅葉なりけり
わたしの解釈はストレートに、
「昔の恋を思い出して懐かしんでいる自分の涙の色に、袂(たもと)に落ちる紅葉が似ている」です。
「涙が落ちる」と「葉が落ちる」とを結びつけることは誰しもあると思うのですが、西行はさらに紅葉の色と自分の涙の色とを結び付けている。何たる激しさ、「紅の涙」ですよ!
 
所で、私達片麻痺障害者やその家族が流した涙も無色透明だとは決して思えません。やはり西行の涙と近い濃い落葉の色だと私は感じます。そんなわけで、下の写真を、私のプロフィル写真にも使っています(石ガエルは私の様に飛べないカエルです)
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歴史を知る魅力とは別に、歴史上の人物の詠んだ歌を知ると、その人の思いが今の自分にもダイレクトに伝わってきます。800年も前に生きた西行の気持ちが今の自分にも伝わってくる。これが和歌を読む最大の魅力だと私は思います。
 
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■□不思議な縁に驚きました!
 
つい最近、我が地区の風土記が編さんされました。そこに書かれていた記述によると、
私が今住んでいる集落は、かって法金剛院に待賢門院 璋子(たいけんもんいん たまこ)が差し出した荘園だったことが判明。何とも不思議な気分です。

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「障がい年齢33歳。もうちょっと生かしていただいて」yahooニュース2019年1月6日 

 


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yahooニュース2019年1月6日


「障がい年齢33歳。もうちょっと生かしていただいて」


会社員 佐藤隆信さん(56) 大分県別府市


 


 


佐藤隆信さん


大分県別府市の社会福祉法人「太陽の家」は“保護より機会を”を掲げ、障がい者の働く場づくりに寄与してきた。その一つ、1983年設立の「三菱商事太陽」は同法人と三菱商事の共同出資で、社員112人のうち70人が障がい者。大分県出身の佐藤隆信さんは1989(平成元)年に入社した。


「地元の高校出て、自衛隊に入りました。航空機体整備員を希望したのに、適職診断の結果は通信員。基地間の交信業務の道に入りました。最初は戸惑いもあったんですけど、そこでコンピューターと出合うわけなんです。ちょうど、配属が(東京の)市ケ谷基地だったんで、周りに夜学とかがいっぱいあって。夜勤のとき以外は勉強してましたね」


1986年5月23日、転落事故で下半身の自由を失った。


「あまり思い出したくないところなんです。休日に友人宅を訪問して、手伝いでベランダかなんかにあるやつを取ろうと身を乗り出した瞬間に落ちたような覚えがあるんです。そこで脊髄損傷。医者には『一生歩けない』と言われて。『なぜ? 治るでしょう』と。23歳のときです。(障害者)手帳を取った時点で自衛隊は除隊になりました。まあ、クビなんだろうな、と。ある日、夢で車いすに乗ってたんです。そのときに自分の深層心理が見えた気がして。体では受け入れても、心まで障がい者になっちゃったのかな、と。でも、そこからです。とりあえず生きてはいるし、落ち込んでる場合ではないと」


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佐藤さんの指に結婚指輪が光る。現在はクラウドサービス部部長兼アウトソーシング部アウトソースチームリーダー。障がい者4人、健常者2人を率いる


「ここの正社員になったのは元年の7月です。通信員時代のコンピューターの知識が幸いして、システム開発、保守の業務畑を歩いてきました。けがをしてからも個人的に知識を高め、チームのリーダーを任されるようになっていきました。僕自身、新しもの好き。新しいツールはどんどん使ってみようと。楽しく仕事してきましたよ。障がい者社員の中では、役職的には一番上なので、見本を見せていきたいと思っています」


1997年に職場結婚。当初、先方の両親には反対されたという。


「当時は障がい者に対する社会的な認知度も低くて、はじめは(先方の両親に)反対されまして。悶々としながら日が経つなかで、半ば飛び出すような感じで僕のところに彼女が来て、それから『どうかひとつ……』と。一生懸命説得しましたよね。長男ができてからは、先方の両親にも頼らせていただきました。今、15歳。もうすぐ高校受験です」


 


「僕にとっての平成は激動です。けがから社会復帰できて、上を目指して30年間ひたすら突っ走ってきた。ちょうど今朝、朝礼で話したんですよ。『障がい年齢33歳や。まだまだ、これから』と。中途障がいの人って、誕生日が二つあると言ったりするんです。普通に生まれた日と、障がいを持った日。けがした当時、『60まで生きれるかな』って言われたんです。30年前は、器具の性能とか医療もまだ進化してなかったので。だんだん(60歳が)近づいてきて、おいおい、近いぞ、みたいな感じではあるんですけど、もうちょっと生かしていただいて、知識と経験を生かして、役割を見つけていきたいです」


(文・撮影:吉田直人)


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